八甲田山雪中行軍遭難資料館

ossun

2014年03月18日 21:00

10年ぶりに行ってきました 後藤伍長,久しぶり~!


本当言うと今日16日は“酸ヶ湯温泉”に行きたかったんだけど…
昨日(15日),女房と二人で浅虫温泉で日帰り入浴してきました
で,“明日は酸ヶ湯に行こう”と約束したのに…
朝からこの雪!


青森市内でこの雪じゃあ八甲田の山中にある酸ヶ湯温泉には到底行けないなと断念しました
でも,せっかくの休みに家に引き籠もりたくないので,この資料館に行ってきました


女房も誘ったのですが,“こんな日は家でやれることをやります”と言って断られました
着いたころ雪は止んでいました

実は,前回の青森勤務だった10年前に,私の両親と弟妹で当時リニューアル開館したてのこの資料館を訪ねています

私が青森にいる機会に両親を青森県を巡る旅行に連れてきたんですよ

ご存じのとおりこの遭難事件は,1977年に東宝で映画化された新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」で有名です


俳優の北大路欣也が演じる“神田大尉”(実在の人物名は「神成文吉大尉」)のセリフ「天は我々を見放した…」が有名です

知らない人のために,この遭難事件を簡単に説明すると,明治35年1月23日,青森歩兵第五連隊は一泊の予定で雪中訓練を行うため総勢210名の大部隊で八甲田山へ向かいますが,折しも観測史上最強の低気圧が近づき猛吹雪で気温-20℃以下となり道を失い四日間山中を彷徨して,199名が亡くなったという大遭難事件です。

なお,冒頭の兵隊像は,この雪中訓練に参加していた宮城県出身の後藤房之助伍長がモデルであり,後藤伍長は救助を呼びに山を下ってきたところ途中で立ったままで仮死状態となり,そこを救助隊に発見されて蘇生し遭難場所等を伝えた人物です

ちなみに映画では,この後藤伍長は“江藤伍長”という名前で俳優の新克利が演じています

資料館の後藤像はレプリカで,本物は八甲田山中の彷徨現場である“馬立場”に建っています

10年前に撮った本物の写真です 明治39年(1906年)7月23日の除幕式には後藤伍長本人も出席したそうです


弟,母,それに妹が写っています

話を戻します
このとき時期を同じくして明治35年1月20日から,弘前歩兵第31連隊も38人が十和田湖から現十和田市を経由し八甲田山を踏破する11泊12日の雪中訓練を行っており全員無事に帰営しています

なお,弘前隊は八甲田山中で青森隊の遭難死体を発見していますが,二次遭難を避けるために救助活動等は行わなかったと言われています

青森隊は210名で短距離なのに遭難し,弘前隊は38名で長距離を全員無事に踏破して帰営したという違いが際立っています


緑のラインが弘前隊のコース,赤が青森隊である

青森隊の指揮官は神成文吉大尉,弘前隊の指揮官は福島泰蔵大尉であり,映画では福島大尉を“徳島大尉”という名前にして高倉健が演じています


なお,映画では青森隊と弘前隊が競い合って雪中行軍しているように描かれていますが,史実ではお互いに全く相手の計画も行動も知らなかったようです

また,青森隊が遭難した原因の一つは,この訓練に急きょ随行することになった大隊本部の山口鋠少佐(映画では三国連太郎が演じる“山田少佐”)が訓練途中に神成大尉から指揮権を奪ったことであると小説では描いていますが,実際のところは不明のようです
※ 軍隊の階級で「少佐」は「大尉」よりも上位階級です

前置きが長くなりました

当時の装備です


手袋は現在もあるいわゆる“軍手”のみで足にはわら靴です 外套も現代のものとは比べものにならないくらい薄手です ダウンジャケットなんてありません その上,重たい銃と背嚢を背負っています
この軽装備で-20℃を下回る猛吹雪の山中に入って行きました!

露営は,小隊ごとに幅2m,長さ5.5m,深さ2.5mの雪壕を掘りましたが,パウダースノーのために横穴が掘れず,吹きさらしの縦穴のため厳しい寒さにさらされたとのことです


掘っても掘っても地面に届かず,持参したおにぎりや餅は凍り付いて食べられず,炊飯のために火を起こすと雪が溶けて斜めになったりして安定せず,まともに火が使えなかったようです

この大部隊には,荷物を運ぶソリ隊もいたのですが,悪天候で行軍についていけず途中でソリを放棄しているので,その点でも装備が貧弱になったでしょうね

なお,日本にスキーが本格的に伝わったのはオーストリア陸軍のレルヒ少佐が明治44年に新潟県で陸軍第13師団歩兵第58連隊に教授したときであり,この遭難のときは軍隊にスキーは装備されていませんでした もちろん無線通信機も当時の日本の軍隊にはない時代です

もしこの時スキーを装備していれば,無事に帰営できたのではないかと言われています

現代の自衛隊員にはスキーも無線も配備されています GPSも持っているんでしょうね~


なお,大隊本部のメンバーである山形出身の倉石大尉(映画では加山雄三が演じた“倉田大尉”)はゴム長靴を履いていたおかげで凍傷を免れたといわれています


ゴム長は,革靴やわら靴よりは凍傷には強いようです


見るからに普通のゴム長です

現代の装備がどれほど進歩したのかが解ります

映画にも出てきますが,凍傷の防止として油紙と唐辛子を使う方法があったようです



捜索によって発見された遺体は山中数キロの範囲に広がっていたとのことです


赤の点灯が遺体発見場所で,緑の点灯は生存者です

最後の遺体が発見されたのは5月下旬とのことです
実に4箇月もの間捜索を続けていたんですね ただ,5月の八甲田はまだ雪が残っている時期です

訓練参加者210名を出身県別で見ると,岩手が144名,宮城が48名,青森6名,山形3名,秋田2名,北海道,石川,東京,神奈川,長野,佐賀,熊本が各1名だったようです 

地元の青森出身者は主に弘前歩兵第31連隊に入営し,青森歩兵第五連隊は県外出身者が多かったとのことです

この遭難の生存者は210名中11名(17名救出されましたが病院で6名死亡)で,生存率約5.2%です 内訳は,岩手5名,山形及び宮城各2名,青森及び秋田各1名という内訳でした 助かったといっても,ほとんどの者が凍傷により手や足等を失っています 全滅と言ってもいい状況です


この遭難事故後に建立された宮城県出身者の犠牲者を弔うための石碑があるんですが,この雪で埋まっていて見ることはできませんでした なぜ宮城県出身者だけなのかね…


この資料館の敷地は,元々この遭難事件の犠牲者の墓地であり,墓石が並んでいます(ただし,遺骨は遺族の元に送ったため入っていないようです)

前列には山口少佐や神成大尉ら士官10名の墓石が建ち,その士官らの前に整列するように兵卒ら189名の墓石が左右に整然と並んでいます


やはり10年前に撮ったのが次の写真です 上の図でいうと下中央から左上部を斜めに赤矢印線の方向で撮影したものです


これらは,遭難死した士官10名の墓石です


その中で中央に建つのが山口少佐です


左側面には“2月2日死亡”と刻まれています 公式には心臓麻痺で死亡したとなっていますが,救出後に病院内で拳銃自殺したと言われています

しかし,凍傷の手では引き金は引けないし病院内で銃声を聞いた人もいないことから,遭難の責任をとらせるため軍部によって薬殺されたという説が有力のようです

これは神成大尉です


“1月27日死体発見”と刻まれています 死亡した日付けが確認できないために遺体が発見された日を刻んでいるのが生々しいですね…

青森第5連隊長津川謙光中佐の進退伺いです 1月27日付けですから遭難発生から直ぐに書いたものですね


この遭難事件は,世界的に報道されたようです


これは生存者11名の記念写真とのことです 義手義足を付けての撮影でしょうね


後藤伍長は両手の指全部と両足の膝下を失ったが日常生活に事欠くことはなく,その後兵役を免除されて除隊し,出身地の宮城県栗原郡姫松村(現:栗原市)に帰って明治36年に結婚して二男四女をもうけ,大正2年から同10年まで村議まで務め,同13年46歳で病没したとのことです

訓練を成功させた弘前隊の福島大尉は,その年の10月に結婚し,翌年の明治36年に山形の歩兵第32聯隊の中隊長に転属となり,日露戦争に従軍して直撃弾を頭に受け明治38年40歳で亡くなっているとのことです

ところで,10年前の兵卒の墓石写真の中央奥にも写っていますが,小さな祠が建っているんです 今回写した写真はこれです


この祠の前に2匹の狛犬が置かれています


この狛犬は,この遭難者の捜索に協力した北海道のアイヌ人が連れてきた犬が捜索の間に八甲田山中で生んだ2匹で,名前を“八甲”と“ベンケイ”というらしいです

で,この祠の中は…


左右にあるのは…


遭難した兵隊さんの人形です 一体一体に名前が入っています
これは左が後藤伍長で右が神成大尉です


倉石大尉と山口少佐


どういういわれのある祠かは調べていません

資料館の職員の方から撮ってもらいました


今回,10年ぶりにこの資料館を再訪したことで,映画「八甲田山」がまた見たくなりました

10年前に地元の人から聞いた話を思い出しました
この資料館近くで今でも夜中に兵隊の行進する足音が聞こえることがあるとか,後藤伍長の像がある馬立場に若いカップルが行くと別れることになる,とのことです 怖いですね…

おしまい


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